柔道の歴史(私記)

このページでは柔道の歴史を説明していますが、僧侶である筆者の個人的持論且つ信憑性に欠けるものであり、また個人的な願いを示すものなので参考までにお読み下さいます様お願いします。

柔道の源流は闘争本能


柔道に限ったことではありませんが、ほぼ全てのスポーツ競技は狩猟や他人との争いから発しているものです。

 

謂わば、単なる「取っ組み合い」が柔道をはじめ、空手道・剣道・レスリングなどのあらゆる格闘技の源流なのです。

 

もののはじめというのはシンプルであり、粗野なものが殆どです。

 

本能や煩悩の赴くままに体を動かし、己の欲を満たしていくのが人間のありのままの姿ですから、粗野であることは至極当たり前の事に思えます。

相撲→兵法→柔術


しかしながら、人間はなんとも賢い生き物で、公平を保つ為にという理由や、勝敗を解りやすくする為など、はたまた己が勝利しやすくする為に、何事にも普遍性(共通のルール)を持たせようとします。

 

不思議なことに共通のルールを作るとことにより、争い事は少し粗野ではなくなります。

 

しかし、ルールというものはルールを作る者が有利になるように仕組まれてつくられていることもあるので注意しなくてはいけません。

(※講道館柔道と高専柔道の「引き込み」の話は有名です。色々な意見がありますが、近年では帯より下部を手腕で攻撃することを禁じ手にしてしまったことなどもそうかもしれません。)

 

 

 日本史上に初めて登場する格闘技は「相撲」です。

 

相撲は神話の時代からその姿が見受けられ、現代に続く我が国の伝統的かつ固有の「国技」であることは誰もが周知のことでしょう。※現在日本では法規的に定められている国技は存在しません。

 

その歴史は、明確ではありませんが2600年前後の歴史を有することになります。


 

さて、人類の歴史は戦争の歴史とも言われています。

そうであれば、当然のこと人類と格闘技は切っても切れない関係となります。

 

大勢で戦う方法、個人で戦う方法、スパイ活動など。自ずと「戦い方」というものが、多様な時代に様々な地域で研鑽されていくのは極自然の流れです。


 書物などに記録されず、歴史の狭間に忘れ去られた「戦い方」が多く存在することも容易に想像できます。

 

そういったものとは別に、歴史に埋もれずに現代にまで伝わった「戦い方」も無論、多く存在しています。

 

日本の数々の武術の祖とされている「飯笹長威斎:いいざさ ちょういさい」は現代まで続く武術を創ったことで有名です。

 

その真相は定かではありませんが、「剣道」の源流「香取神道流」の創設者と言われております。

 

逸話によりますと、飯笹先生は奇術を使い笹の上に浮かんで座すことができたと言われております。

 

また、他の説では飯笹先生は密教系の僧侶だったという話もあります。

 

 

古来、日本の文化の発祥は「寺院」でした。

 

なぜならば、多くの僧侶が多大なる危険を冒して「唐」や「明」などの国に留学して色々な文化を持ち帰ってきたからです。

 

この「武術」とよばれるものも、何らかの形で僧侶達が持ち帰ったものであると考えてもおかしくないのです。

 

因みに、忍者が使っている武器に有名な「手裏剣」がありますが、あれは全て密教法具が源流です。独鈷所や羯磨などを見て頂けたらその所以がご理解できるかと思います。

 

そして、この室町時代から剣術柔術槍術弓術砲術などがそれぞれ様々な流派として技術化、体系化されていくのです。


独鈷所:とっこっしょ(左)と羯磨:かつま(右)
独鈷所:とっこっしょ(左)と羯磨:かつま(右)
クナイと十字手裏剣
クナイと十字手裏剣

武士(サムライ)


侍(さむらい)という名称の語源は公家の周りを「さぶらう」からと言われております。

謂わば貴族のボディーガードがプロの戦闘集団の「武士」となります。

 

 

天皇を中心とした貴族文化が栄えた平安時代、武士の存在は「貴族の番犬」程度の扱いでした。

 

しかし、歴史は大きく動きます。

 

平清盛率いる武士集団「平家」が天皇を中心とする貴族社会を史上初めて崩壊させます。


更にその平家を源頼朝率いる「源氏」が亡ぼすことで、武士が権力を掌握した鎌倉時代に移行し、武士の時代がやってくるのです。

 

武士が権力を持つということは、「戦うこと」が当たり前の時代ですから、「戦い方」の研鑽がとっても活発になるのは簡単に想像ができるとことだと思います。

 

そして、室町→戦国→江戸時代まで武士は色々な「戦い方」、色々な「ルール」を作り上げていきました。

 

それはそれは、無駄のない美しすぎる技術だったことでしょう。

 

道雪派弓術、日置流弓術、日置豊秀流弓術、日置吉田流弓術、雪荷派弓術、大坪古流馬術、大新流馬術、 会津伝一刀流溝口派剣術、安光流剣術・心清流剣術、太子流剣術・薙刀術・心清流剣術、真天流剣術、神道精武流剣術・柔術・手裏剣術、兵法大道流剣術北辰一刀流剣術、古天流剣術、新天流剣術、小野派一刀流剣術、神道流剣術、破東一流剣術、新景流剣術、無楽流居合術、今井景流居合、夢想無楽流居合術、山野流壇術、 大内流槍術、宝蔵院流高田派槍術、一旨流槍術田村流槍術、穴沢流薙刀術、鹿島流棒術、初心流棒術・捕手要流棒術、荻野流砲術、永田流砲術、神妙流柔術、稲上心妙流柔術、夢相流柔術、青柳流捕手術・棒術好要流体挫術、向井流水法

 

以上、netで武術を検索したところ出てきたもののほんの一部です。

 

弓から剣、棒、杖、槍、薙刀などなど、あらゆる武器や体の使い方が研鑽されてきたのです。

 

お侍さんて本当凄いですね。

 

最後の方に柔術というものが見受けられますが、これらが柔道のもとになったものです。

嘉納治五郎 師範


江戸時代、武士たちの生業として色々な武術が勃興しましたが、明治維新が成り、武士の時代が終わりを告げると、武士に支えられてきた武術は衰退の一途をたどります。

 

それら武術を救ったのが柔道の創始者、嘉納治五郎師範でした。

師範の生い立ちなどは割愛します。(神戸市出身ということだけ触れておきます。)


武士たちが研鑽し技術体系化してきた武術を、新時代にマッチしたスポーツに変え、

更に世界に普及し、現代にまでその技術を残すという偉業を成し遂げた人物です。

 

そして、その偉業の中で「柔道」は誕生します。

嘉納師範は天神真楊流柔術と様々な武術の良いところを組み合わせて新しいルールの武術を作りました。

それが、だれでも安全に出来て、体と心を鍛えることを目的としたスポーツとしての武術「柔道」でした。



さて、柔道はもともとは「嘉納流柔術」と呼ばれていたそうですが、「術」から「道」に名前が何故変わったのでしょうか?

 

 

 

柔道は「精力善用、自他共栄」の理念と目的による自己完成をめざす「道」であるとして、術から道へと名をあらためたと講道館さんのご説明がありますのでこれが正解なんでしょうが、

 

ここからは持論です。(ここまでも持論ですが、、、)

 

茶道や華道、香道など日本文化には「道」とつくお稽古ごとがたくさんあります。

 

この茶道や華道、香道はそれぞれ、佛様にお茶やお花、そしてお香をお供えをするための作法から発展したものです。

 

そして、このお稽古ごとは、あらゆる無駄を削ぎ落として「真実の美」を追求していきます。

※この世で一番美しいものは無駄が一切ない姿です。

これは所謂「さとり」を追い求める修行なのです。

 

柔道の「道」というのは「佛道:ぶつどう」の「道」なのです。

 

「さとり」に至る「道のり」という意味です。

 

上記、自己完成とは「さとりの境地にいたる」という意味になります。

 

 

結論を申しますと、柔道の最終目的は「さとり」です。

 

さとりを得ることが柔道の最終目的なのです。

 

 

柔道をとおして「己がなんのために存在しているか」という理念を学び、

そして「己を活かし、他を活かす。」という目的地を目指すのです。

 

佛教ではこれを「二利:にり」と言います。

 

己を活かす、「自利:じり」  他を活かす、「利他:りた」

 

この二つを合わせ修めることを「二利双修:にりそうしゅう」と云い、僧侶が修めるべき「修行」の一つなのです。

 

個人的推測ですがきっと、嘉納師範は「さとり」を体得されていたことでしょう。

 

自利利他の想いに深く目覚めていた方と察します。

 

 

 

私は大好きな柔道をとおして

 

いつか「柔道修行」に従事する人たちが

 

「自利」「利他」の行いをとおして

 

我々存在し得るもの全てが

 

無限に広がる世界の中で

 

繋がりあい、支えあわなければ

 

存在しえないものだと感じとることで

 

嘉納治五郎師範が思い描いた「共栄」の世界

 

恒久平和の世界の実現の

 

一助になることを切に願います。

 

 

 敬 白